日々その日暮らし

前向きにその日暮らし

映画「佐藤さんと佐藤さん」

活発な佐藤サチ(岸井ゆきの)と、真面目な佐藤タモツ(宮沢氷魚)。大学で出会った正反対な性格のふたりはなぜか気が合い、同棲を始める。5年後、弁護士を目指しているタモツは司法試験に失敗。サチは独学を続けるタモツに寄り添い応援するため、自身も勉強をして司法試験に挑むことに。そして見事合格したのは・・・サチだった_。弁護士になったサチと、子育てと家事をしながら勉強し続けるタモツ。あの時のふたりは変わってないはずなのに。なんでだろう、段々と変わっていくのは_。

 

お互い理解し合いたいはずなのにできないってよくある。
それは、双方の考えに埋めがたい溝があったからもしれない。
けど、もしかしたら、そもそも相手を理解すべき対象と見ていなかったから?と思い返すことがある。もし、そう見ていたとしても、理解すべき対象がぼんやりだったからかな?とも。

 

お互いの理解は、相手を理解すべき対象と見ることが出発点。けど、これができてないケースってよくありそう。
劇中の熟年離婚を切り出された男性。「俺が必死に働いて支えてきたことを忘れてる」って憤慨してたけど、支えてきた(内心では「養ってきた」)自負心のあまり、相手を自分の一部にしてれば、理解すべき対象と見ようがない。

これのたち悪いところは、自分の一部にしているつもりが、その本質は依存で、これに本人が気づいていないこと。
そのギャップに気づかない人が、「分かってくれないのはおかしい」なんて他責するんだろうなと。

 

さらに難しいのは、相手を理解すべき対象見ていたとしても、それが曖昧だと、理解が覚束ないところ。
お互いの理解って、相手が何者かを理解する過程で、相対的に自分が何者かを理解しつつ、それぞれのアイデンティティというか輪郭をはっきりさせることで、深まるものだと思う。その輪郭がはっきりしないと、お互いの理解もぼんやりしたままで、「なんか理解できない」ってストレスだけ抱えることになる。

 

劇中の佐藤さん夫婦は若いころのように理解し合えなくなった。
お互いの立場が比較的シンプル、フラットだった若いころには、自転車に乗りながら言葉を投げ合っていたときのように、理解し合うことは比較的単純だったんだろう。

けど、サチがタモツより先に司法試験に合格し、弁護士として成長していって責任は重く、活動範囲が広くなり、タモツの司法試験受験を支えていくことが当たり前になってくると、ふたりの理解はずれていく。

サチは支えている自負心から、いつしかタモツを自分の一部にしてしまい、理解すべき対象と見なくなってしまった。

一方のタモツは、司法試験受験が長くなっていくなかで、これってアイデンティティの危機なんだろうけど、自分の輪郭をサチに示せなくなっていた。司法試験受験の願書を出し忘れたり、故郷でNPOを立ち上げたいと語ったりとか(サチの気づかないところで故郷のマドンナにフラフラしてガツンとやられるとか)、どこに向かうのか分からないタモツの姿は、サチからみると輪郭がぼやけたものになり、それが理解を妨げたのかもしれない。

 

離婚の相談に訪れていたサチの友人。
「夫の妻」と呼ばれることが不満で離婚を考えていたけれど、仕事を始め軌道に乗ってくると、離婚の話はどこへやらになった。
仕事を始めて自分の輪郭が、そして相対的に夫の輪郭も形作られることで、お互いの理解が深まったのだろう。

 

佐藤さん夫婦は別れてしまう。
けど、妻を必死に非難する依頼者を冷めた目でみるサチ、別れた後も子どもとの生活をバトンタッチすることでタモツとの関係を維持するサチ、理解し合っていた昔を思い出して涙するサチ。
理解し合えなかったその先にある「折り合い」を予感させるラストは、希望に満ちたものに感じた。

書籍「本なら売るほど」 第12話「雲隠」 言語化の外にあるもの

年若いひっつめ髪の店主が営む、街の小さな古本屋「十月堂」。
棚作りに工夫を凝らしたり、厄介な来訪者に悪戦苦闘したりしながら、今日ものんびり営業中です。
人の手を渡り、時を超え、今なお次なる読み手を待っている本のために。

 

「言語化」が日常用語、いや、現代社会の生存スキルとしてSNSや書店で目にしない日はなくなった。

「三省堂辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2024』」で大賞を受賞したけれど、それまで辞書にも掲載されていなかったとか。

 

これからも、日本で主流だった空気や文脈重視のコンテキスト文化が機能しにくくなったり、さらにSNS全盛になっていくなか、言語化はさらに重要な生存スキルになるだろうし、これはポジティブに受け入れるべきことなんだろう(自分も仕事は言語化できるかどうかみたいな環境にいる。他の人の言語化をみるのも楽しい。)

 

ただ、世の中のすべてを言語化できるわけではなく、またその能力も千差万別だから、言語化されないこともたくさんある。これをなかったことにするのはあまりに暴力的だ。

これからは、言語化が重視されるほど、言語化されないこともあるって忘れずに汲み取る力もまた重視されることになるんだろう。

もともと、コンテキスト文化の日本、ここに言語化が加わることで、いってみればハイブリッドなコミュニケーションが進むかもなんて、今後を楽しみにしている。

コンテキスト文化の「空気や文脈重視」というと、「同調圧力」的なネガティブなイメージもあったけど、これからはポジティブにアップテートされるのでは。

 

「本なら売るほど」第12話「雲隠」では、そんな言語化されなかったことが描かれる。

本文のないサンプル本である「束見本(つかみ本)」、これをまたとない宝物にしていた元小説家(自称)、源氏物語で本文はないけど巻名だけが伝わる「雲隠」、これらを絶妙に紡ぎあげる登場人物の台詞、そしてその先にある言語化されなかったこと。

 

そういえば、4分33秒という曲(ジョン・ケージ)があるけど、これは、指揮者から音響の指示がないため、演奏者は音を出さないまま終了する。

この第12話にも通ずるかなんて思ったけど、この曲の意図は、聴衆が曲ではなくその場に起きる音を聴くことで、「沈黙とは無音ではなく、意図しない音が起きている状態」を感じることにあるとか。

「意図しない音」は実際に存在するものだから、「雲隠」における空白に実際に存在しないものをみることとは物理的に異なるようにみえるけど、本来あるはずのものの外側に何かをみいだすという意味では同じかも。

 

「言語化」とともにその外にあるものの大切さに気づかせてくれるお話し。










書籍「君のクイズ」 小川哲 ネタバレ気味 多様な価値観が錯綜する現代社会、どう生きるか。

生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか?真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになり――。

 

第76回日本推理作家協会賞受賞作、「このミステリーがすごい!2024年版」第7位等々輝かしい受賞歴、映画化もされるこの作品だけど、リアルなクイズ描写、それによる謎解きだけでは終わらず、民衆による熱狂の裏側、それを知った主人公の心理描写まで、いろんな角度から示唆に富む約200頁。

頁数はそれほどじゃないけど、これだけの内容を無理なく盛り込める構成力は爽快ですらある。時間はないけど、いろいろ楽しみたい欲張りな方は是非。

 

最初に目を引くのは息詰まるクイズ描写。
クイズの強者=知識量じゃないんだと初めて知る。
詳細は割愛だけど、「確定ポイント」をいかに早く見極めるかとか、ある状況では「確定ポイント」より前に早押ししてギャンブルするとか、知らなかったことばかり。
出題から解答までは数秒だけど、その裏のみえないところを淡々ながら緻密に積み上げるものだから、読んでるこちらも息詰まる。

やっぱり、裏のみえないところの描写って大切。
閃光のハサウェイキルケーの魔女の何がよかったって、派手なモビルスーツ戦を裏から支えるバックヤードがさりげなくもしっかり描かれていたこと。それだけに、ギギとの戯れ具合も際立ったしね。

 

主人公は、そんなしのぎ合いを振り返りつつ、そもそも自分にとってクイズとはと向き合いながら、「対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解」した理由を明らかにしていく。

犯人を捜したり、伏線から謎を解き明かすミステリーとは趣は違うけど、そんな振り返りや改めてクイズに向き合うことが、謎解きに収斂していく展開は、素人がいきなり探偵になってしまうといったご都合主義とは対局。
クイズをめぐるリアルな描写がここでも効いてる。

 

その謎解きの内容は割愛だけど、ああ、これって、背後にあるより大きな思惑によって、知らず知らずのうちに民衆が熱狂させられていくってやつだ。

昔、ある雑誌の編集長が「ブームって、つくるものなので」と影響力を誇示してたけど、そのころは半信半疑だった。けど、分かりやすいところではステルスマーケティングや炎上芸等、そんな思惑が可視化されるようになった昨今、まさかクイズ番組を扱う作品で相まみえることになろうとは。

 

ただ、本作は、そんな思惑に熱狂させられる滑稽さだけでは終わらない。
むしろここから。

謎解きの過程で、主人公はひたすらクイズを振り返り、クイズは自分の人生そのものだと改めて自覚するんだけど、対戦相手・本庄は、違ったんだよね。
大きな思惑や、これに熱狂させられる民衆もいると知ったうえで、これらを利用するしたたかさというか賢さがあり、クイズもそんな自分の自己実現のためのツールでしかない。主人公みたいにクイズを人生そのものなんて、みじんも思ってはいなかった。

ただ、主人公は、そんな本庄に熱い想いをぶつけて正そうとすることはなく、ただ、静かに決別して、自分のクイズに邁進するのみ。

これが、多様化する社会ってやつにおける生存戦略なんだろうね。

SNSの影響もあり、価値観の細分化がどんどん進むなかで、「これが正しい」なんておっしゃるマスコミや大御所なんて誰も信じない。正しさも、上下も分からない社会では、自分の価値観を信じて生きていくしかないし、それさえあれば、楽しく生きていくことができるはず。

クイズ番組を題材に浮かび上がらせた民衆を熱狂させる大きな思惑や価値観の相違。そんななかでも楽しく生きていくための生存戦略。
リアルな描写を楽しむもよし、これからの生存戦略をちょっと考えて見るもよし。
どこからでも示唆に富んだ読んで損のない一冊であること間違いなし。

こんな息詰まるやりとりが、映画ならではで、同描写されるか、今から楽しみ。

 

書籍「言語化するための小説思考」 小川哲 「何を書くか」×「どう書くか」

小説がどう生まれるかを知ればより深く楽しめるかもなんて、表向きのこと。駄文をもっと高尚にする種や仕掛けがあればって下心で手に取った。

けど、本書にはそんな種や仕掛けはない。そこにあるのは「どうすれば読者がより面白いと感じてくれるか」を探求する著者の求道者のような姿だ。

そんな本書は、小説に限らず人になにかを伝えたい人に、種や仕掛けではなく、拠って立つべき強固な土台を示してくれる。


著者

2017年、カンボジアの現代史を絡めたSF小説『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞を受賞したことをはじめ、2022年の『地図と拳』、『君のクイズ』等々著書多数。
2024年の『君が手にするはずだった黄金について』は、読者に委ねる余白が心地よく広がった作品。

そうそう、『君のクイズ』は映画になるね。

 

「何を書くべきか」×「どう書くべきか」

元々雑誌に連載するエッセイとして書かれていたようで、いろんな話題が前後しながらちりばめられる。

1章ごとに、まえがきにある「プロスポーツ選手の美しい身体運動を三次元座標の値に移し替える作業」のように、小説や小説家が解体され、「おー」「へー」の連続。けど、それぞれがぶつ切りというか、全体像がわからないというか、少々ストレスも感じじながら読み進める。

そのストレスを解消してくれたのが、ようやく最終章で示された以下の全体像。

 

小説の勝利条件(読者がより面白いと感じてくれること)
=何を書くべきか(認知)×どう書くべきか(技術)

 

「売上=単価×顧客数」を初めて目にしたときと同じ衝撃だったけど、各章をこれら「何をかくべきか」と「どう書くべきか」に分類して位置づければ、理解しやすい。

最初に全体像を示してくれればとも思ったけど、この前後自体も著者自身の言語化の過程を再現したものなのかも。まえがきにこんな記載もあったし。

本書には、僕が小説を書くときに考えていることを可能な限り言葉にしてみよう、という試みの軌跡が記されている。

 

「何を書くべきか」

著者は、「何を書くべきかか」を「認知」とし、これが凡庸なら、いくら「どう書くべきか」つまり「技術」が優れていても表現の質は上がらない、読み終わったあとに何も残らないとする。

じゃあ、どうすれば「何を書くべきか」を非凡にできる?

詳細は割愛だけど、それは、頭でうんうん考えるのではなく、とりあえず書いてみること。とりあえず「書いてみる」ことで、その過程で生まれる「面白さ」を見逃さなければ、書き始めたときには予想もできなかったアイデアが宿る。

今の自分の思考力の限界を黒円とすると、その中心①付近でうろうろしていても、思考は黒円からはみ出せない。それなら、黒円からはみ出なくてもいいからとりあえず②を書いてこれを中心に新たな赤円を描ければ、これまでの思考(黒円)の外に出られる(斜線部分)というイメージかな。

 

 

私も書面仕事のとき、確かにとりあえず書いてみることで、どんどん筆が進んだり、新たな課題に気づいたりといったことはよくある。

著者は、この「面白さを見逃さない」力を「視力」と呼ぶ。

考えることに固執せず、「視力」を心がけることで、考えるだけでは浮かばなかったアイデアを手に入れられる。

天才に憧れるだけだった凡人にとって、これ以上の希望があるだろうか(いやない)。


「どう書くべきか」

著者は小説を「コミュニケーションの一種」としたうえで、この観点から「どう書くべきか」に心を砕く。

上手なコミュミケーションのためには、語り手が聞き手に適切に情報を与えなければならない。当然「読者は何を知っているか」「どこまで書けば理解してくれるか」に想像を巡らせることになるけど、なかでも印象的だったのは「文体」について。

いろんな意味が含まれる「文体」だけど、著者が最も重要視するのは「情報の順番」(情報をどの順番で出していくか)で、実際にこの「情報の順番」を逆にした2つのミニ小説で、読み味の違いを披露している。

ビジネス文書での「情報の順番」は、「結論は先に、理由は後で」が定番だけど、小説では同じように先に結論めいたものを示し、その後の説明で「そうだったのか」とカタルシスを高める以外にも、登場人物と同じ目線で情報をリアルタイムで小出しにしてその心情を追体験するサスペンス的要素を高める手法もあることが分かりやすく示されていた。

あぁ、これを「言語化」というのね。

「うまいこと言った」みたいなのが「言語化」って思いがちだけど、こうやって無意識に感じていることを丁寧に掘り出して言葉で示すこと。
本作は、そんな優れた言語化を丁寧につまびらかにもしてくれる。

本書のもとになった連載の題名は「小説を探しに行く」。これが「言語化のための小説思考」に改題されたされた理由がよく分かる。


まとめ

これを読んだからといって、決して文章が高尚になることはない(見りゃわかる)。
けど、「何を書くべきか(認知)×どう書くべきか(技術)」を意識するだけで読書体験も、人になにかを伝えるために意識することも変わるだろう。

うんうんうなってないで、とりあえず書いてみよう。まずはそこから。
「視力」を鍛えるにはどうすればいいのか、それは自分で考てみよう。

とりあえず書いてみることで思考の外に出ることもそうだけど、本書を思考の円の端に意識することでもこれまでの思考の外に連れ出してもらえる。本書は、そんな希望に満ちた読書体験を与えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

映画「閃光のハサウェイ キルケーの魔女」 逆襲のシャアの負の続編 まだまだガンダムには伸びしろがある

U.C.0105、シャアの反乱から12年――。

圧政を強いる地球連邦政府に対し政府閣僚の暗殺という方法で抵抗を開始した「マフティー」。そのリーダーの正体は、一年戦争をアムロ・レイと共に戦ったブライトの息子、ハサウェイ・ノアであった。
不思議な力を示す少女ギギ・アンダルシアにかつてのトラウマを思い出すハサウェイ。彼女の言葉に翻弄されながらもマフティーとしての目的、アデレード会議襲撃の準備を進めるが……。

引用:閃光のハサウェイ キルケーの魔女 WEBサイト


原作小説を読んだのは約20年前。
逆襲のシャアのサイドストーリーというか、スピンオフ程度の印象しかなかったが、これ正当な続編じゃないの。

人々の思いとνガンダムのサイコフレームが共振し、光の奔流がアクシズを遠ざけ、地球は救われる・・・。そんな余韻あるハッピーエンドで締めくくられたアムロとシャアの物語。その影で心に深いダメージを負ったハサウェイのその後がこれでもかと描かれる。

たくさんある面白ポイントのうち、これまでの宇宙世紀ガンダムと異なるがゆえに面白かったことをいくつか。

こんなふうに本作をみられるのも、宇宙世紀の物語が綿々と紡がれているからこそ。ありがと。


主人公が組織のトップ

これまでの主な宇宙世紀作品(『1st』『Z』『ZZ』『UC』等)の主人公は、偶然ガンダムに乗ることになった少年だ。
彼らは戦火に巻き込まれ、大人の理不尽に怒り、迷いながらも生き延びるために戦い、成長していった(TV版のカミーユは蝕まれていった。)。
ときには、戦いたくないから脱走とか、目上だろうが頭来たから殴るとか、両想いになった恋人のため軍を抜けるなんて、感情爆発させることもあったけど、それも一応許されていた。

けど、本作のハサウェイは違う。

まず、ハサウェイは、歴代主人公のように戦うかどうかで悩まない。自ら迷うことなくテロ活動してる。

むしろ、地球をクリーンにする!とのテロ活動の大義のため組織運営に腐心しているくらい。
アナハイムと交渉して武器を調達したり、構成員の気持ちを慮るはもちろん、世論、他の組織との連携、捕虜の処遇にも気を配る。目の前の戦術も大局的な戦略も考えなきゃならん。

さらに、真面目なハサウェイは、大義にふさわしく高潔であろうと、ギギへの肉欲に悩んじゃったりする。

これらは、かつてのパイロットだけやっていればよかった主人公にはない、組織のトップとしての重圧だ。
いろいろな事情を受け止めて、悩んで、折り合って、実行して。大人じゃないの。

 

成長しない

また、ハサウェイはこれまでの主人公と違って成長なんてしない。
クェスを救えなかったどころか、勝手に持ち出したMSでチェーンを死なせたトラウマに蝕まれるハサウェイ。マフティでのテロ活動に没頭するのも、このトラウマを克服したいがため。

ラストでシャアの言葉をそのままパクってたけど、ハサウェイが空っぽゆえかと、いたたまれない。

すでに精神的に摩耗し、破滅に向かいつつあるハサウェイ。それでも大義のために汚れ役を引き受ける。そこに成長への希望なんてみいだせない。

 

ライバルが指揮官

これまでの主な宇宙世紀作品のライバルは、敵のエースパイロットだ(「エース」にふさわしくないのもいたが。)。

MS戦でつばぜり合いしながら、お互いの思いをぶつけあうのが定番だった。
しかし、本作のライバル、ケネスは指揮官ゆえ、MS戦でつばぜり合いすることはない。
ハサウェイはケネスの有能さを認めつつ、部隊を隠したり、陽動作戦を見抜いたり、あえてひっかかったように見せたりと頭脳戦を挑む。
その場のMS戦で勝つか負けるかではない、緊張感ある腹の探り合い。そんなガンダムは記憶にない。

このケネスは、主義主張にとらわれず仕事をこなす柔軟さ、煩悩爆発、なんだかんだいってそれほどギギに執着しない等々、ハサウェイとは露骨に対照的に描かれている。
ケネスは、気に入った女性に居場所を与えることが得意で、これが口説きの一つなんだろうね。ギギには験担ぎの女神だとか、メイスには連邦のお偉方への接待に欠かせないとかね。

そんな二人が互いを認めつつ、直接相まみえないまま戦うなんて、これまでの宇宙世紀ガンダムにはなかったはず。


MS戦

これまでの宇宙世紀ガンダムでは、MS戦はMSをかっこよく描くことがキモだったけど、本作では人の視点から描くことで恐怖とか緊張感をにじませている。本作は、MSじゃなく、人が主役が徹底されている。

第1部のMS戦は、地上の人からの視点で描くことで、人権無視の地球連邦軍対テロ組織の戦闘に、天災のごとく巻き込まれる市民の恐怖が描かれる。
MSがなにかするたび、高熱のなにかが降り注いだり、ガラスが割れたり、建物が崩落したり、地上の人は逃げ回るしかない。
これ、F91の冒頭のMS戦も同じで、お気に入り。

また、第2部である本作ではMS同士の戦闘でも、コックピットのパイロットからの視点で描くことで、MSへの埋没感が増し、緊張感がみなぎる。
あれだけのセンサー類が明滅、視点も上下左右、AIからサーベルを提案されて承認、まぁ、忙しいのなんのってって考えてたら即死なわけで、そんな緊張感がひしひしと伝わってきた。

これからのガンダムのMS戦では、こんな描写も増えるんだろうと思うと楽しみ。


バックヤード

これまでの宇宙世紀ガンダムではバックヤードの描写は限られていたけど、本作では緻密、かつ情報量豊富に描かれていた。整備、操船、情報収集、訓練などなど、

多数のキャラがそれぞれの役割を果たしてたね。
メカニックのプロ、勉強熱心な若手、恋人同士、ゴシップ話に華をさかせるクルー、痴話喧嘩の元恋人同士などなど、短い時間でよくあそこまで。

ヴァリアントが撃沈されたって一報があったとき、名前は思い出せなくとも、あの人どうなったと、次々キャラが思い浮かんだもの。
ランバ・ラルとホワイトベース内で白兵戦になったとき、多数死傷者が出たけれど、「あいつどうなった」とまでは思い浮かばなかったしね。


まとめ

と、まぁ、これまでの宇宙世紀ガンダムとちょっと違うところを、徒然思い出してみた。
冒頭のとおり、こんなふうに比べられるのも、宇宙世紀ガンダムが綿々と作品を世に出してくれたから。そんな広がりをもったガンダムには感謝しかないが、今回みたいにこれまでと方向性を変えることでまだまだ伸びしろがあることよく分かった。

それにしてもさ、あのハッピーエンドらしきエンディングから、こんな物語が紡がれるなんて、普通わくわくするはずの続編が、いわば負の続編。

第三部はどうなるかこれから楽しみだけど、なんだかんだでテロリストだから。ギギに癒やされて終わりなんてならないよう、5年後?に期待するだけ。その日を元気に迎えられるよう、これからジムだ。

 

 

 

映画「もみの家」 少女の成長を通じて現代社会への問題意識を示す傑作

心に不安を抱えた若者を受け入れる〔もみの家〕に、16歳の彩花がやってきた。不登校になって半年、心配する母親に促され俯きながらやってきた彩花を、もみの家を主宰する泰利は笑顔で招き入れる。
「うちの生活の基本は、早寝早起きと農作業。ご心配もあるかと思いますが、まずは腹を括ってじっくり見守って頂ければと」
娘を心配しながらも、母親は東京に戻っていく。
・・・中略・・・
慣れない環境に戸惑いながらも、もみの家での生活に次第に慣れてゆく彩花は、周囲に暮らす人々との出会いや豊かな自然、日々過ごす穏やかな時間の中で少しずつ自分と向き合い始める――。

引用:もみの家 WEBサイト


みんないいひと、田舎暮らしで立ち直る。

一見よくあるストーリーにみえる。けど、本作の主人公が、人、食、地域との関わりを通じて、なりたい自分になっていく過程は、SNSが人から向き合うことを奪うだけでなく、全ての流れの速すぎる現代社会への問題意識も見え隠れする。

 

16歳の彩花(南沙良)は、不登校になり、半ば強制的に自立支援施設「もみの家」を訪れた。主宰者は泰利(緒形直人)と恵(田中美里)夫婦。

 

冒頭、彩花が不登校になった経緯は語られない。
携帯電話をなんとなくいじるまま朝起きられない彩花、不登校に焦りを募らせる母朋美(渡辺真起子)、問題先送りの父隆司(二階堂智)が紹介され、そんな彩花が朋美にもみの家に連れられる様子がテンポよく描かれる。
そのテンポのよさが、居場所がない、かといってどうすればいいのか分からず流されるだけ、そんな彩花のいたたまれない心情を窺わせる。

 

もちろん、もみの家での生活にはなじめない。
何をすればよいかわからず、他の入所者との会話も少なく、ここにも居場所がない心情は、彩花を携帯電話いじりに走らせる。

携帯電話いじりって楽しい。負荷がかかりそうなとき、無関係な話題を目的なく渡り歩く心地よさは、お酒を飲んだときのそれに似ている。いわば酩酊状態。
それは、負荷に向き合うしんどさを散漫にしてごまかしているだけなんだけど、お酒と違って、手元で安価に無限にいじれる携帯電話だけにたちが悪い。
アテンションエコノミー。人の注意・関心が稀少な資源とされるSNS全盛の現代社会。携帯電話が向き合う機会をどれだけ奪っていることか。

実際、彩花がもみの家での生活に居場所を見いだすにつれ、携帯電話をいじるシーンはなくなっていった。

 

彩花は、もみの家での役割に積極的に。他の入居者とも打ち解け、仕事を見つけてもみの家を離れる先輩入居者達に自分を重ねあわせた。
秋に稲刈りして脱穀する姿は、田植えのときにひっくり返され号泣していたときとは隔世の感。

そんな彩花はもみの家の外の地域にも関わっていく。

地元の獅子舞での活動で獅子を廻すことになった彩花は、その練習で地元の住人と、特に差し入れをしてくれるハナエ(佐々木すみ江)に打ち解けていく。
もみの家から外に向かっていく姿が、自然な成長を感じさせる。

そして、彩花は体調を心配してハナエの家を訪ねるまでになったが、ハナエは急死。突然の別れに呆然とする彩花。

葬儀のとき「母がご迷惑をおかけして」と挨拶して回るハナエの息子に「迷惑なんかかけてないよ」と伝える彩花だけど、東京の高校ではクラスメートにも気持ちを伝えられなかった。どうやって伝えるのかも分からなかった。
それが、初めて会った年上の男性にも、TPOや伝え方はともかく、伝えられた。

そして、出会い。かねてより妊娠していた恵の出産に立ち会い、生命の誕生に接する。ハナエの死と新しい生命の誕生。
自分が大きな循環の輪にいることを自覚する瞬間であった。

 

彩花は、東京に戻らず、地元の高校への進学を決意し、不登校から脱する。
もみの家に始まり、促されるままとはいえ地域にかかわり、さらに積極的に人に関わるなかで、なりたい自分をみつけて決断した瞬間であった。

 

泰利は「〔もみ〕というのは、脱穀前の稲の実のことで、まだ固い殻を被った米のことなんです。家族も、我々も、時間をかけて、その固い殻を破る手助けをするんです。」と言った。

彩花は、もみの家に訪れたときには固い殻を被っていた。けど、もみの家での生活や地域との関わりを通じて、徐々にその殻を破り、ついには地元の高校へ進学する決断に結実した。

もみの家の入所者が旅立つ姿に自分を重ねた。自ら参加する農作業を通じて徐々に成長していく生命をみた。ここでも自分の成長を重ね合わせたことだろう。そして、ハナエの死と新しい生命の誕生を目の当たりにし、自分のその輪にいることを自覚した。

どれもこれまで当たり前のことで、誰もが向き合ってきたことだけど、携帯電話に注意や関心を奪われ、さらに流れの速い現代社会では、そんな風に向き合う余裕もない。

本作は、人、自然、地域とゆっくり関わるなかでの彩花の成長を描きながら、そんな現代社会への問題意識を示す傑作である。

読書「黄色い家」 家族を求めるあまり、崩壊の引き金を引いてしまった哀切

2020年春、惣菜店に勤める花は、ニュース記事に黄美子の名前を見つける。60歳になった彼女は、若い女性の監禁・傷害の罪に問われていた。長らく忘却していた20年前の記憶――黄美子と、少女たち2人と疑似家族のように暮らした日々。まっとうに稼ぐすべを持たない花たちは、必死に働くがその金は無情にも奪われ、よりリスキーな〝シノギ〞に手を出すことになる。歪んだ共同生活は、ある女性の死をきっかけに瓦解へ向かい......。

引用:中央公論新社 『黄色い家』川上未映子 特設ベージ

 

『黄色い家』といえば、ゴッホのアルルでの夢と希望が詰まったこれ。

ja.wikipedia.org

その夢と希望は、ゴッホの耳切り事件で終わりを迎えた。


川上未映子さんの『黄色い家』も同じだ。
主人公花の夢と希望が詰まった家だったのに、いつしか瓦解していく。

そこには、10代後半の花が、その生い立ちゆえに家族を求め、なのに家族を知らなかったがために、自ら崩壊の引き金を引いてしまった哀切が描かれる。

 

主人公花は、貧困と同居する母のネグレクトのなかで生活する少女。
夜の仕事をしている母の収入は不安定、帰宅も不定期、さらに交際相手に振り回されてもいて、物心ともに生活能力を欠いている状況がこれでもかと詳細に描写される。

そんななかでも花は、自分なりにまっとうに生活しようとする。
バイトに精を出し貯蓄に励み、母の知人である黄美子の生活ぶりをみて素直に見習う感受性もある。
ここでも、ファミレスでのバイトの状況、黄美子の日常家事や地元ヤンキーと渡り合う姿に花が惹かれている様子が詳細に描写される。

しかし、ある事件をきっかけに、母との生活に見切りをつけた花は、まだ高校生ながら、母のもとを離れ、黄美子とスナック「れもん」を開店、一緒に生活することになる。

家族の定義はいろいろだけど、喜びや悲しみを分かち合ったり、それぞれの役割を果たし合って、自己肯定感を醸成、孤独感を軽減することに変わりはないだろう。
まだ高校生の花が、母との生活やこれにまつわる事件に絶望し、黄美子との生活にこれを求めたことは当然のことだった。

これを物語のベースとすると分かりやすく思う。
お金、犯罪、なかなか抜けられない生活層等々様々が描写されるけど、すべては花が、自覚しているかどうかは分からないけど、家族を持ちたいという思いに収斂される。

 

黄美子との「れもん」の経営は順風満帆。
あこがれの年上女性の琴美、兄貴分の映水(ヨンス)とも知り合い、新たなスタッフとして花と同年代の蘭や桃子も迎える。稼ぎも順調。
警察がやってきてドキッとすることもあったけど、そんなの大丈夫。

 

そこで、『黄色い家』。
花は、黄美子、蘭、桃子と一緒に生活する借家をサプライズで準備。
かねてからのラッキーカラー、黄色で塗装した家は、まさに花の夢と希望が詰まった家だった。

ここから4人で「れもん」に出勤して稼ぎ、楽しく生活する。
花が母との生活では得られなかった、喜びや悲しみの分かち合い、自己肯定感の醸成、孤独感を軽減がそこにはあった。

しかし、その崩壊の予兆は見え隠れしていた。

花は密かに黄美子の衰えを感じていた。最初に出会ったころの黄美子はもっと頼りがいある大人の女性にみえたのに、そうでもなくなった。これは、黄美子が衰えたからか、あるいは花の成長に伴い黄美子を昔ほど仰ぎみる存在に思えなくなったからか。
実際の親子関係でもありそうなこと(自戒)。

また、蘭や桃子には、いざとなれば戻るべき家族がいた。蘭には貧乏ながら蘭のことを気にしてくれる家族がいるし、桃子にも一方的に忌み嫌ってはいるけど金持ちの家族がいる。そんな二人には『黄色い家』は家出先でしかない。ここでしか家族を得られない花とは違う。
そんな不安要素ではなく、二人の紹介として、けど後から効いてくる描写として秀逸。

そして、それは現実のものとなってしまった。家族を求めて必死になるあまり、花は、狂気じみた精神状態に陥っていく。

 

「れもん」が火災で焼失し、4人は稼ぐ術を失う。
『黄色い家』を維持するには、「れもん」を再建しなければならない。そのためには金がいる。
花は、映水(ヨンス)からの紹介をきっかけに、偽造カードの出し子に手を染める。
花は、当初罪の意識に躊躇していたが、やがてそんな意識も薄まり、ついには蘭や桃子も誘う。

ようやく『黄色い家』で手にいれた家族。
花はその維持のためと言いきかせて犯罪に手を染めていった。
それは、花にとって、喜びや悲しみを分かち合い、自己肯定感を醸成し、孤独感を軽減する場を手放したくないことの表れだったのだろう。
久々に連絡をとってきた母から、金を無心されたことも、『黄色い家』しかないと改めて思わせた出来事だったかもしれない。

もちろん、4人で地道に働いて稼ぐという手もあっただろう。
しかし、母のもとで当たり前の家族生活を送れず、家出同然で飛び出したことがここで効いてくる。

花には、困難に直面したときに家族で助け合って乗り切ったというモデルケースがない。むしろ、自分でなんとかしなきゃというタイプ。
高校中退で学歴もなく、公的な身分証明もない。
そんな花には、自分が頑張るしかない、けどまともに働くことは難しいと考えても仕方がないことである。

 

出し子の仕事は順調だった。

しかし、やがて4人の関係にひずみが生じる。

そもそも、花のなかでは黄美子は戦力外。また、蘭や桃子は今後のことを真剣に考えない頭の弱いやつらと映っていた。

けど、蘭や桃子が、今後のことを花と共有できないことは当然のこと。

だって、蘭や桃子にとって、『黄色い家』は家出先でしかない。花みたいになんとしても維持したい家族なんて思うはずがない。

それが分からない花は、蘭や桃子の軽率な仕事ぶりをきっかけに、強硬策に出た。
これまでお金を管理してきたことに加え、蘭や桃子の行動を制約し、報告を義務づけるようになり、黄美子には監視役を命じた。

出し子は、『黄色い家』で家族を維持するという目的のための手段でしかなかったはず。なのに、出し子での稼ぎに傾倒するあまり、支配する側とされる側という家族に相容れない関係を持ち込んでしまうとは。
家族を知らないゆえ、他人に家族を一方的に夢想し、これを強い、みずから崩壊させてしまった瞬間であった。

 

そして、その崩壊は琴美の死をきっかけに噴出する。

蘭や桃子は、花の行状に呆れて稼ぎの山分けを要求し、すべては大人の黄美子のせいでこうなったと主張。
夢想していた家族を失うことになった花も混乱のなかこれを受け入れ、黄美子を残して『黄色い家』から出て行ってしまったのである。

手に入れたはずの、自ら必死になって維持してきたはずの家族を失った花の絶望は、その心に大きく影を落としたであろう。
すべては、母との家族関係が出発点であった。

 

20年後、花は、黄美子と再会を果たし、一筋の希望を見いだした。

花は、『黄色い家』を失い、母を亡くし、また琴美を夫婦で死なせたのは自分のせいと考え心に深い傷を負っていた。

しかし、20代の女性を監禁して傷害を負わせた罪で黄美子が起訴されたという記事を目にした花は、これまでの顛末を思い出しつつ、映水(ヨンス)から聞いた住所に黄美子を訪ねて再会する。

かつて、「ついてくるか」と誘われて家出した花。同じように黄美子を誘ったら断られる。
しかし、花は、帰りの道中、安心したかのようにまどろんだ。

蘭や桃子とは異なり戻るべき家族のない黄美子だが、それでも「ここにいればみんなに会える」と花の誘いを断った。
花は、もう家族を抱え込む必要はないとその言葉に安心したのであろう。一方で、また会えるとの希望も見いだしたようにも思える。

それは、自分を苛んできた家族の呪縛から解き放たれた瞬間であった。

 

本作には、お金、犯罪、1990年代の風俗等々が詳細に盛り込まれた。

当時を生きてきた自分にもありありと当時を浮かび上がらせる詳細な描写だけでも読み応え十分である。

そのなかで描かれたことは、家族を知らないがゆえに、家族を求めた少女の哀切である。
昨今の格差社会でいえば、家族格差ともいおうか。どのような格差でも自覚できれば対処のしようもある。けど、それを自覚する素養を育む家族生活がなければそれも難しい。

花は、黄美子との再会を果たし、家族の呪縛に一区切りをつけた。ここには希望を見いだせる。
しかし、40代の花が今後どう生きていくのか。
母との家族生活、4人での歪んだ共同生活のなかで、花がとりこぼしたものはあまりにも大きい。
元来、まじめで責任感の強い花であればなおさらである。

いろいろな形はあれど、家族の役割を見直すきっかけになる作品でもあった。